Thursday, December 29, 2016

フランク大松氏。



ショーン三宅 & 敬老理事会様、

きょうは、少しばかり日にちを遡って書き綴ります。あれは6月25日の昼食時でした。三宅さんも良くご存じのフランク大松氏への、感謝の気持ちを捧げるサプライズ・パーティーが催されたのです。
サプライズ・パーティーですからご本人は何も知らされておりません。場内は照明を落としています。満員に膨れ上がった130人の家族、友人、同僚、部下たちは声を潜めて大松氏の来場を待っています。そこへ、あの大柄な大松氏がのっしのっしと入口に姿を現したのです。
それに合わせて照明は戻り、会場は揺れ動くほどのどよめきが起こりました。みなは総立ちです。大松氏へと放たれる歓声は、当分の間、止むことをしませんでした。
日系コミュニティーのために一生を捧げられたフランク大松氏へと感謝の気持ちを伝えるサプライズ・パーティーでしたが、そこには、大きなサプライズが待ち構えていました。Judy ChuMaxine Waters両連邦下院議員が、大松氏への感謝状を携えてサプライズ登場されたのです。会場は驚きの声で溢れました。正真正銘のサプライズに、大松氏はご満悦でした。
その時にJudy Chu議員が持参された盾には、大松氏の栄誉を讃えるために、Chu議員が連邦議会で報告された文章が刻まれてありました。これは、連邦議会議事録として永久に保管されるのだそうです。翻訳文を引用しましょう。

“大松氏は1924年にロサンゼルスで生まれました。そして第二次世界大戦が勃発するや、生まれ育ったロサンゼルス、長年住み慣れた我が家からの退去を命じられ、Arkansas州にあるJerome 強制収容所へと送られます。彼は高校生でした。ですが彼は、強制収容という酷い仕打ちにもかかわらず、国に対する忠誠を失うことはありませんでした。
収容所が廃止された際、彼は強制退去を命じられた生まれ故郷のロサンゼルスへ戻ることをせず、陸軍へ加わることを選びます。MIS(陸軍諜報局)の77部隊へと配属され、フィリッピンと日本において任務を全うしました。彼の家族が囚人の扱いを受けたにも関わらず、彼は国のために戦うことを選択したのです。
  (中略)
UCLAを卒業すると住友銀行に入行しますが、その後、支店を任されるという大役を授かるのです。これは、日系社会では大きな出来事でした。日系二世が支店を任されるのは、彼が初めてのケースだったからです。そして、収容所から戻ってきた日系アメリカ人を援助するための貸し出しに力を注ぎます。日系アメリカ人の経済的な自立を助けるためでありました。
  (中略)
常に地域社会のために、そして周りの人々のためにを念頭にして生きてこられた彼は、敬老高齢者ヘルスケアの創始メンバー「Magnificent Seven**」の一人となります。ロサンゼルスに住む日系人高齢者のみなさんが、何の不自由もなく余生を送れるようにと作られた非営利団体です。敬老は充実した看護を提供し、バイリンガルの看護・介護士を備え、そして日本文化の機微に基づいたサービスを提供してきました。敬老の四施設そのものが、家族が集い、日本の豊かな文化と歴史を分かち合う場となったのです。
  (中略)
私は今、彼の同僚と友人、そして彼の一生を貫いた奉仕精神によって影響を受けた人々と共に感謝の意を表します。敬老と日系社会のために一生を捧げられたフランク大松氏に心よりお礼申し上げます。そして、これからも引き続き日系社会を引っ張っていただけるよう切にお願いいたします。
**訳者註: Magnificent Sevenは、西部劇『荒野の七人』から引用されたものと考えます。)


拝啓 ショーン三宅 & 敬老理事会殿、

フランク大松氏は連邦議会において称賛されるほどの大きな人物であられます。日系社会の宝である敬老四施設を創設されたメンバーの一人であり、ただ一人の存命者でもあられます。
そう、三宅さん。あなたが20数年間CEOとして君臨した敬老の創設者なのだ。しかしあなたとあなたが率いた理事会は、この方が残した功績に対して見向きもしなかった。感謝状の一枚も授与されなかったそうじゃないか。
理事会のみなさんへもう一度物申す。あなた方理事会は、人の連名で“敬老の創始者は、現在われわれが遭遇しているのと同じ環境に直面しているとすれば同じ決断をする、と信じています”と羅府新報に謳った。そのような出鱈目をぬけぬけと言うもんじゃない。先頭を切って敬老売却に反対したのは、創設者の一人フランク大松であったことをお忘れではないでしょう。

ジョン金井

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