ショーン三宅様、
何回か前に、あなた方が使う“culturally sensitive support to older
adults and their families in our community”という文句が引っかかると書きました。今回は、そのculturally sensitiveをもう少し掘り下げてみましょう。あなた方はこれを“文化的背景を考慮する”と訳しました。私はこれを、“日本文化の機微に基づいたケア”としました。Sensitiveにある微妙な感覚を含ませたかったからです。
“日本文化の機微に基づいたケア”を考える場合、長年にわたり心のこもったケアを施してくださったバイリンガルの看護士と介護士のみなさんを抜きにしては語れません。高齢者を気遣うこの方たちの心魂によってのみ、その継続が可能だったのです。
そしてもう一つ忘れることのできないのは、数え切れないほどのボランティアの存在です。2014年の敬老のtax
returnを見ると、引退者ホームと中間看護施設のボランティアの数が421とあります。そして、リンカーン・ハイツの介護施設のそれが309です。サウスベイの介護施設の資料が手元にないので総数は分かりませんが、年間730人以上のボランティアが何らかの形で敬老四施設と関わったのです。
居住者のみなさんは書道、華道、俳句、詩吟を嗜み、日本舞踊や民謡に興じたのです。これらは全てボランティアよって賄われます。カラオケも忘れずに入れましょう。歴とした日本文化ですからね。寿司教室を催してくださる日系企業もありました。
そしてそこには、特筆すべき方がいらっしゃるので書き記します。日本語奨学金基金を主宰される方ですが、年に一度、そのチャリティー・ショーのために日本の著名なエンターテイナーを招待されるのです。そしてその都度、旧敬老を訪れたのでした。おかげで私も、小椋佳、南こうせつ、美川憲一といった馴染みの歌手の歌声を生で聞くという幸運を得ました。目の前に現れた実物を見てワクワクしたのが思い出されます。
言うまでもありません。居住者のみなさんの喜びようというのは言葉では言い表せられないほどでした。日本を遠く離れ、長い年月を異国で生きながらも、みなさんの心の拠り所は日本文化にあるのです。
ボランティアを国語辞典で引くと、“社会事業などに自分から進んで技能や労力を無報酬で役立てる人々”とあります。旧敬老四施設でボランティアに励んだ方はみなさんが、“日系の高齢者のために、自分から進んで無報酬で日本文化の機微を伝える”使者の役割を務めたのです。50数年にわたり敬老での日本文化の継承を担ったのは、ボランティアのみなさんに他なりません。
ここで、話をガラッと変えます。culturally sensitive careに関してです。このことは先日説明しましたが、もう少し種を明かす必要がありますので続けます。売却の条件として州司法長官から、向う5年間culturally
sensitive careを維持することを要求されました。パシフィカ社とノーススター、アスペン社はそれを飲みます。
その時に三宅さん、あなたはボランティアのプログラムを継続させる援助をすると彼らに約束されたようですね。これは当然の話です。パシフィカもノーススターもアスペンも日本文化の機微などと言われても雲をつかむようなものですからね。居住者のことを思うと当たり前の成り行きです。その時、あなたのことをちょっとは見直しました。
それが、蓋を開けてみるとどうですか。度肝を抜かれるようなショッキングなニュースが待ち構えていました。ボランティア・プログラムの継続をサポートする代金として、あなたの率いる敬老が年間7万ドルを彼らから受け取るというじゃないですか。
拝啓ショーン三宅殿、
これはない。高齢者のために日本文化の機微を伝える役を果たそうとする方々のピンハネをするようなものだ。崇高な無償の行為に対してピンハネをするのはいけない。「ハイエナのような行為だ」と怒る人もいました。「いや。そのように言うと、ハイエナがかわいそうだ」とあきれ返る人もありました。
このことを聞き知ったユダヤ人が一つの例え話を送ってくれました。それを引用して今回は終わりにしまう。
とある小都市の街角である。一人の老婆が毎日プリッツェルを持ってきて
は売った。一つ1ドルだった。昼食時になると、一人の若者が毎日その前を
通り過ぎた。その度に、老婆のプリッツェルが乗る台の上に1ドル札を置い
て行った。だが若者は、ただの一度もプリッツェルを手にすることをしな
かった。そのことは三年間続いた。二人はその間、挨拶すら交えなかった。
は売った。一つ1ドルだった。昼食時になると、一人の若者が毎日その前を
通り過ぎた。その度に、老婆のプリッツェルが乗る台の上に1ドル札を置い
て行った。だが若者は、ただの一度もプリッツェルを手にすることをしな
かった。そのことは三年間続いた。二人はその間、挨拶すら交えなかった。
ある日その若者は、いつも通りにその台の上に1ドル札を置いた。とその
時、老婆は三年目にして初めて口を開いたのだった。そして、瞬きもせずに
噛みつくように言った。
時、老婆は三年目にして初めて口を開いたのだった。そして、瞬きもせずに
噛みつくように言った。
「今は、$1.25なんだ」
ジョン金井